パブリシティ紹介

2013.08.03更新

 
石黒由美子の夢オリンピアン朝日新聞 (本紙記事より)
夢を胸に泳ぎ始めて16年、北京五輪の舞台に立った石黒さん(中央)
夢を胸に泳ぎ始めて16年、北京五輪の舞台に立った石黒さん(中央)

 「水中の泡」を模した透明な天井から、きらびやかな光が降り注ぐ。控室を出てプールサイドに立ち、それを全身に浴びると、同時に視界が開けて、これまでの競技生活で見たこともない、1万7千人もの観客が目に飛び込んできた。
 「これが五輪――。本当に、この場に来たんだ」
 2008年8月22日。北京五輪のシンクロナイズド・スイミングで、石黒由美子さん(29)はチーム種目を演じる8人の中にいた。緊張は全くなかった。やれることは、全部やってきたから。
 順風満帆ではなかった。泳ぎは下手だったし、病気もした。何より、二度の「大けが」は、五輪選手の夢を閉ざす致命的な障害だと周りの誰もが思った。1度目は「顔」に、2度目は「心」に負った、あまりに深い傷。それを乗り越え、やっとつかんだ舞台だった。
 最初の試練は小学校2年生の秋。クラシックバレエのレッスンを終え、帰宅しようと乗り込んだ軽自動車に、暴走車が正面から突っ込んできた。
 衝撃で頭からフロントガラスに突き刺さり、大学病院で7時間の手術を受けた。顔面粉砕骨折に網膜剝離(はくり)。右のほおが耳元まで裂け、顔だけで540針、口の中は260針も縫った。
 「顔中の神経が切れています。表情をつくることも難しいかもしれません。言語障害なども覚悟してください」。医師の説明に、母和美(かずみ)さん(56)は言葉を失った。
いしぐろ・ゆみこ 東京都生まれ、名古屋市育ち。北京五輪(08年)シンクロナイズド・スイミングでチーム5位。

視野欠け、聴力戻らず

入院中の病院で(石黒和美さん提供)

 「普通学級に戻るのは、難しいかもしれません」
 石黒由美子さん(29)が7歳で交通事故に遭い、半年の入院を経て退院する時、母和美さん(56)は医師から告げられた。
 失明は避けられたものの、視野は欠けたままで、聴力も戻らない。事故前の記憶を失ったうえ、言葉がうまく出ず、数字の大小も分からなくなっていた。外傷性の脳の機能障害、というような医師の説明だった。
「絶対治る」。顔中に540針も縫った傷痕が残る娘を、和美さんは明るい声で元の小学校へ送り出した。
 家庭でも、言葉のリハビリになればと、目に留まった物事を次々と実況中継のように口にして、浴びせるように娘に語りかけた。視力を取り戻すために有効だと聞いた遠方凝視と、蛇口からしたたる水滴を目で追う訓練も、親子の日課になった。
 シンクロナイズド・スイミングは、入院中に本人が「やりたい」と言い出した。お気に入りのテレビドラマが、シンクロ選手の物語だった。退院してほどなく、地元・名古屋市の専門クラブの門をたたいた。
 だが、三半規管にダメージが残っていて、真っすぐ泳げない。右目は完全に閉じられず、プールの水で真っ赤に腫れた。視野も狭く左右50~60度しか見えないので、不必要に首を動かしてしまう。音楽をかけた練習では、音が聞き取れなくて振り付けが遅れた。
 「泳げます、って入門してきたのに......」。クラブの代表者でヘッドコーチの鵜飼美保(うかいみほ)さんはあっけにとられた。手足の長さと体の柔らかさという「持ち物」の良さは目にとまったが、競技選手を養成するクラブでは、力量のない子に手取り足取りはしていられない。
 1年経ち、2年が過ぎ、小学校高学年になってもシンクロの成績は伸びず、予選落ちを繰り返した。
 ある日、演技を撮ったビデオを見て、画面の中の自分の姿に驚いた。頭の中のイメージと違って動きはぎこちなく、にっこり笑ったつもりだったのに、右半分だけ張り付いたように動かず、ゆがんだ顔が映っていた。
 「でも何とかして、まずはジュニアの全国大会でメダルを取りたい」。そのころから、目標は五輪、と心に刻んでいた。
劣等生、一転エースに


大学2年生の日本選手権で。成績が伸び、自信満々だった(本人提供)

 小学校3年生でシンクロを始めたが、幼少時の事故の後遺症で、まともに泳げない。でも、「五輪に出たい」という夢を支えに、石黒由美子さん(29)は歯を食いしばって練習した。
 努力が実を結んだのは、6年生で出場したジュニアの全国大会。技術の正確さを競うフィギュア種目で5位に入賞した。無名の選手が名前を呼ばれて、会場にどよめきが起こった。
 地元名古屋のシンクロ・クラブで、「落ちこぼれ」が一転エースになった。練習場所もプールの端から真ん中に移った。
 ところが、中学生になって早々、極度の疲労感に襲われるようになった。椅子に座ろうとしても倒れ込んでしまうほどで、演技中のスタミナも続かない。
 病院に行き、感染症による腎炎と診断された。「絶対安静。シンクロの練習は控えて」と医師から言われた。
 でも、1日でも休んだら体が動きを忘れてしまう。医師に内緒で練習を続けた。処方された薬も、ドーピング違反になるのが怖くて、できるだけのまなかった。「オリンピックに行くんだもん。逆にこのくらいでないと、ドラマにならないじゃない」。投げ出したくなる自分に、そう言い聞かせた。
 猛練習を続けたのに、幸運にも腎炎は治まった。シンクロの成績も、再び上向き始める。
 高校2年の夏、ジュニアの全国大会で準優勝し、翌年、日本代表に。米国で開かれたジュニア・ワールドカップでチーム2位と、世界の舞台に躍り出た。
 事故の後遺症は、シンクロの練習が結果的にリハビリの効果を上げ、克服しつつあった。
 右半分にマヒが残り、ぎこちない表情しかつくれなかった顔の動きは、代表合宿でダンスの先生がトレーニング法を教えてくれた。「ほおを上げて、下あごを前に。歯を全部出す!」。左右のバランスを整えるよう意識しながら、毎日鏡をのぞき込み、使い切りカメラや携帯電話で「自分撮り」を繰り返した。
 実績は、国内外の大会で着実に積み上がった。大学受験にもパスした。絶好調だった。
 2003年12月、20歳で迎えたアテネ五輪代表選考会。日本代表9人の枠には絶対入れる。そう信じて疑わなかった。

代表落選、心が折れた

2004年の国際大会で演技する石黒さん(左)。過食症に苦しんでいた(本人提供)

  五輪に行けるシンクロ選手は計9人。2004年のアテネ大会に向けた代表選考会は、03年暮れに行われ、選手の演技の後、順位が口頭で発表された。
 石黒由美子さん(29)は、10番。あと1人、届かなかった。
 「つらい練習に耐え続けた、あの努力と時間は、いったい何だったの?」。20歳の無防備な心が、音を立てて折れた。
 五輪に行く日本代表Aチームには入れなかったが、依然としてBチームのトップ。練習は再び始まった。でも、以前のようには身が入らない。
 アテネ後。代表選手の半数が引退し、ワールドカップに向けた強化合宿が始まったが、大学の教育実習と重なって、心身の疲労とストレスはピークに達した。それが、過食症の引き金を引いてしまった。
 不安と眠気を紛らすために、常に食べ物を口に入れていないと気が済まない。じわじわと体重が増えた。シンクロ選手にとって、少しの太り過ぎも御法度。代表の合宿には居られなくなった。教育実習の単位を落とし、留年が決まったことも追い打ちをかけた。
 シンクロクラブを去り、自宅を飛び出してアパートにこもった。小さい時からずっと励まし続けてくれた母和美さん(56)の存在さえ、疎ましく感じられてならなかった。家族が近づくと、物を投げて暴れた。冷蔵庫に首を突っ込み、炊飯器を抱え込んで、手当たり次第に胃袋に押し込んだ。体重はあっという間に80キロを超えた。
 そんな自分が嫌で、頭をコンクリートの塀に打ち付けたり、大量の風邪薬と一緒に焼酎を思いっきり飲んだりもした。自暴自棄になっていた。
 どん底から助けてくれたのは、友人たちだった。
 インフルエンザで伏せっていた時、幼なじみが通い詰めで看病してくれた。その姿を見て、中学生のころの決意を思い出した。「後遺症や病気を克服して五輪選手になって、みんなに勇気を与えたい」。人の役に立つ、それが元々の目標。ならば五輪選手である必要はない。心がすっと軽くなった。
 大学の友人たちに迎えに来てもらって、引きこもりから半年後に復学。シンクロの再開は、考えもしなかった。

代表、襲う重圧

復帰初戦の日本選手権で演技する石黒さん(前列中央)=2006年5月、本人提供

 アテネ五輪の代表選考に漏れ、自暴自棄な引きこもり生活をしていた21歳の春。石黒由美子さん(29)は、友人らに励まされ大学キャンパスに戻った。
 教師になろうと、目の前の勉強に取り組んだ。採用試験の準備を考え始めた2005年の夏。シンクロクラブの後輩から請われて大会の応援に行った。応援しながら、涙がこぼれた。「やっぱり、あの舞台に立ちたい」
 以前は、自分のために五輪に出たいと思っていた。でも今度は、誰かに勇気をあげるために出たい。「これなら、たとえ結果がぼろぼろでも、もう一度、と立ち上がれるんじゃないか」
 一度やめたクラブの門を、再びたたいた。プールを離れていた約1年の間に、有力選手は着実に育ち、求められる技術の難易度も上がっていた。
 次の五輪は08年の北京。日本代表を決める最終選考会まで、残り2年間でランキングを上げなければならない。出場すべき大会を逆算し、目標の階段を一つ一つ上った。
 日本代表Bチームに復帰し、07年夏には有力な国際大会「スイスオープン」に出場した。演技の勘も取り戻し、ソロやチームなど3種目で優勝。その勢いのまま、12月の北京五輪代表選考会では、9人の代表枠に8位で滑り込んだ。
 五輪の舞台に立てる――。体が熱くなった。でも、落選した後輩たちに4年前の自分の姿がだぶり、もっと技量を磨かなければと自分を追い立てた。
 練習漬けの毎日が始まった。
 シンクロ競技では、多面的な力量が問われる。プールの中を縦横に泳いで移動するためのスピードと持久力。回転したり水中から跳び上がったりする特有の技術力。さらにダンスやバレエに通じる表現力。こうしたパーツを、音楽に合わせた振り付けに沿って組み立て、演技が完成する。やるべき練習は種類が多く、時間も長い。
 しかも、本番のチーム種目で泳ぐのは8人で、誰が補欠に回るかは直前まで決まらない。どの位置に入っても演技できるよう、全ての配置と動きを覚えなければならない。
 実践的な練習量が不足していた石黒さんを、プレッシャーが襲った。過食症が再燃した。

ありのままの私でいい

子どもたちに、夢を持つことの大切さを伝える=5月、岡山県の小学校

 2008年。北京五輪シンクロ日本代表に選ばれた石黒由美子さん(29)は、夏の本番に向けた強化合宿が始まってから、体と心の不調に苦しんでいた。
 シンクロ界から身を引いていた約1年のブランクによる、練習量の不足。レギュラーか補欠か、神経をすり減らすせめぎ合い。ストレスで、以前苦しんだ過食症が再び頭をもたげた。
 体重が増えて大失敗したアテネ五輪直後の経験から、体形維持には人一倍気を使っていたのも、裏目に出た。のどに指を突っ込み、下剤をのみながら、それでも食べずにはいられない。
 気持ちの浮き沈みが激しく、医師にかかって抗うつ薬をもらったが、全く治らなかった。
 名古屋市の自宅を離れ、東京での合宿が始まってから、都内で精神科のクリニックを開く於保哲外(おぼてつがい)さんを訪ねた。母和美さん(56)の知人で、以前から顔見知りだったが、患者として受診したのは初めてだった。
 「今のままでいいんだよ。大丈夫」。症状の訴えに耳を傾けていた於保さんは、こう繰り返した。「原因は自分を追い詰めていること。自分をありのままに受け止めることが彼女の唯一の治療法だ」と考えたからだ。
 その種明かしまでは聞かなかったが、数回の診察で、体重がすっと落ちた。あとは、息もつかず駆け抜けた。
 五輪本番。出場したテクニカルルーティンは4位。翌日のフリールーティンは控えに回りコーチ席から声援を送った。結果は総合5位で、メダルを逃し、苦い思いを味わった。
 しかし、帰国すると祝福の声が待っていた。障害を乗り越えて五輪の舞台に立ったことをたたえる報道が、一足先に届いていた。母の和美さんは言った。「由美ちゃん、勝ったね」
 年末の国際大会を最後に、現役生活に終止符を打った。大学院の博士課程に進み、いじめ問題を研究する。傍ら各地の小学校を回り、体験を交えて授業をするボランティア活動も始めた。伝えたいメッセージは「夢をあきらめない」。
 最近、その授業の中で、今の夢を語り始めた。「もう一度シンクロに復帰して、今度は世界一を目指したい」。目標は来年夏の世界マスターズ大会。また、挑戦だ。
(吉田晋)


投稿者: オボクリニック

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