ふれあい診察室

2014.08.02更新

 完璧を目指す人はそれ自体やりがいがあるようにみえるが、完璧が達成できないとき無用な葛藤に陥りやすいともいえる。すなわち、完璧を自身に課す人は初めから自分を否定的に捉えているものである。したがって、ちょっとしたきっかけでも深く傷ついてしまう。
 Sくんは幼稚園の年長であるが、気管支喘息とてんかんがある。喘息の発作で無呼吸状態になったことがてんかんの原因かもしれないと大学病院の医師から言われているという。Sくんのお母さんはそれは全部自分の看護が至らなかったためと思い、いつもSくんに申し訳ないと自分を責めている。その結果ついイライラしたときは上の娘に怒りをぶつけてしまい、またその自分を情けないと責めてしまうという悪循環に陥っている。元々責任感が強く、子供のためならすべてをかけるタイプなだけに余計に出口が無くなっている。
 最近、一番上の子をひどく虐待してしまうことで悩んでいる母親が多いといわれているが、Sくんのお母さんもその一人である。このようなお母さん方に共通していることは、子育てに一生懸命になるあまり、不安が強く、また期待した結果がでないときのショックや自責の念に陥りやすい。その葛藤が、上の子への攻撃となっていくようである。
 このような場合、ゆとりが無くなっているわけであるから、回りの人達がカバーしてあげることが重要である。その上で、あらためてお母さん自身が、自身を追いつめる悪循環に陥っていることに気づくことが必要であろう。子育てに失敗や挫折がつきまとうのは当たり前、それくらい偉大な事業をしているのだからと達観すると同時に、もともと持っている自己否定、自身を追いつめる癖を変えるチャンスと捉えてほしいものである。

投稿者: オボクリニック

2014.07.24更新

 来院する患者さんを見ているといわゆる真面目な人が多い。どういうわけか、不真面目な人はいないのである。あらためて、何人かの人に真面目のイメージを聞いてみた。いわく、几帳面、何でも一生懸命な人、規則をよく守る人などの意見であった。臨床場面で病気と真面目さとの関連を考えてみると、真面目な人は本音の自分を殺し、困難や、問題に直面すると自責的になり、結局自身を追いつめて病気に陥るというパターンのようである。いわゆる真面目とは自分を殺し、周りの規範に自分を合わせて生きることのようである。しかし、広辞苑を引いてみると、真面目とは「まごころのこもった態度、顔つき」とある。本来はありのままの自分を示すことが真面目なわけである。
 また、真面目な人は概して遊び下手である。むしろ"遊びは罪悪"のイメージがある。ここで、冬山登山を考えてみよう。凍った雪の坂道を重い荷物を背負って登るわけである。いつ天候が悪化して身動きできなくなるかわからない、いつ雪崩に巻き込まれるかわからない、また谷底に転落するかわからないといった、寒さや苦しさ、恐怖との闘いである。これらを乗り越えて頂上を征服したときの喜び、満足感、達成感はひとしおであろう。こうして頂上を極めた人は次はもっと大変な山に挑戦したくなるものである。
一方同じ山に他人から強制されたり、義務で登る人だとどうだろう。寒さや苦しさは一段と厳しく感じるだろうし、恐怖の中に、惨めさや情けなさも加わるだろう。頂上についても安堵感はあるだろうが、こんな苦しい思いは二度と嫌だと思うのではないだろうか。
困難をも遊びにとらえる人は何事も楽しんでいけるだろうし、義務的にとらえる人は人生すべてが苦しみと、重荷にしかならない。本来の真面目に立ち返って、充実の人生を送りたいものである。

投稿者: オボクリニック

2014.06.19更新

 アリとキリギリスという寓話がある。働き者のアリを笑っていた怠け者のキリギリスが冬の準備を怠って寒さに震えてしまうという内容である。大切な道理が描かれている有名な話であるが、ここに思わぬ落とし穴が潜んでいる。
 Kさんは50代後半の男性であるが、うつ病との診断で一年近く治療しているが、好転しないとのことで相談に見えた。聞いてみると家のローンが終了し、二人の娘を嫁にやり、一段落した頃から、具合が悪くなってきたようである。いわゆる典型的な「荷下ろしうつ病」である。 Kさんは真面目一筋で一家の柱としての役割を果たしてきたわけであるが、その責任を全うしたとき、うつ病を発症したのである。
 Uさんは大学二年であるが、大学に入学以来それまでの受験勉強の反動で、なにをやっても詰まらなくいわゆる「燃え尽き症候群」に陥っている。今までの人生、他のすべてのことを犠牲にして受験戦争を戦ってきたのであるが、これからも良い就職をするために大学での勉強に励み、一流企業に入ったらさらに、その中で出世するために努力することを考えるとすべてがむなしく思えてくるという。
 KさんもUさんもがんばりやでアリ型の生き方をしているわけであるが、決して楽しんで生きていない。「我慢して努力した先に幸せが待っている」という幻想に真面目な人ほど惑わされ、がんばるわけである。しかし大切なのは「今」ではないだろうか。同じ働くのでも、勉強するのでも、楽しんでやることはそれ自体に価値があるといえよう。苦労を耐えるという後ろ向きな生き方ではなくその大変さを楽しむとき、結果はどうあれ、すべて人生に生かせていけるのではなかろうか。

投稿者: オボクリニック

2014.06.19更新

 Aさんは元高級官僚の天下りで、ある公団の重要ポストに就いたが上司との折り合いが
悪く、さらにその上司と部下との板挟みなどからうつ的となり職場に出ていけなくなった。
同期の仲間などが心配して色々配慮してくれるが、自信を失い、なかなか立ち直れない。
休職してかなりの期間になるが、復職の目途が立たないとのことで診察にみえたものであ
る。「昔元気で働けていた頃がなつかしい。つくづく、不甲斐ない今の自分が腹立たしい」
とますます落ち込むばかりである。
 Aさんに限らず病気になった自己を認められずますます自責的となり、病状が悪化する
という悪循環に陥る人は少なくない。このような現象の背景には権威主義、権力主義的な
価値観が潜んでいるようだ。
 権力とは文字通り「権(かり)の力」である。政治権力などはそのものであるが、敷衍
して考えれば、地位や財産、家柄、学歴などが権力といえよう。さらには若さや健康、美
しさや、かっこよさもそれがかりそめのものという意味では権力といえよう。すなわち、
このような権力を自身の価値と考える人は、それを失ったときに自身の生きる拠り所を失
うことになってしまう。働けない自分を責めたり、病気の自己を卑下する背景にこのよう
な権力志向の価値観がある。私が尊敬する鎌倉時代の僧、日蓮は身分、家柄が絶対的価値であった時代に自らが「旋陀羅が子」(最下層の家柄の出身)であることを誇りとし、権力の中でも最高の国家権力に何の後ろ盾もなく立ち向かわれたのである。権力主義と人間主義を対比する上でこれ以上鮮明なモデルは見あたらない。一人の自立した人間であることの偉大さがこれからますます問われる時代になってくるのではあるまいか。

投稿者: オボクリニック

2014.06.02更新

 私たちは無意識のうちに自分自身に向けている眼があります。ふだんはなかなかそのことに気づかないものですが、病気になったり、何かに失敗したりしたときに立ち現れてきます。その眼が肯定的なものか否定的なものかで人生の意味や価値が全く異なってきます。
 例えばここに小学校一年生の太郎君がいるとします。その太郎君のことをA先生は「この太郎君は問題の子だ。欠点だらけで長所といってもせいぜい二、三個あればいい方だ」という冷たい眼で見ています。またもう一人のB先生は「この太郎君はすごい子だ。いろいろ問題を起こすのはエネルギーが充ち満ちている証拠だ。将来が楽しみだ。長所を百個以上持っている子だ」という温かい眼で見てくれるとします。もし皆さんが太郎君だとしたら、どちらの先生のクラスを選ぶでしょうか。A先生のクラスであれば太郎君は反発するか、もしくは萎縮し緊張するでしょう。いっぽうB先生のクラスであれば太郎君は安心の中で伸び伸びと個性を発揮し、成長していくでしょう。
 自分自身をどちらの先生の眼で見ているか、ふだんは気づきにくいものです。しかし、自分自身の長所を探そうとしてみると自分の特徴が浮かび上がってきます。すなわち、自分自身を冷たい目で見ながら長所を百個探し出すことは不可能でしょう。一方、何の違和感もなく自分なら百個くらいの長所はありそうだと思える人は自分を見る目が温かいといえるでしょう。
 冷たい目で自身を批判的に見ながら、病気を治していくことはきわめて困難です。そこに気づきそこを変えていくことが根本的な治療であり、蘇生になるということを臨床の現場で実感しています。

投稿者: オボクリニック

2014.05.19更新

私の見るところ、健康な人、一流の仕事を成し遂げている人には子供っぽさがあるように思えます。親しみやすくて愛嬌があり、したがって、その人の本音がわかりやすいものです。逆に本音を押さえたり隠したりする人は、周りから理解されなかったり誤解されたりしやすいのではないでしょうか。
 人間関係の悩みを訴えてくる若者が後を絶ちませんが、彼らは一様に「周りの人が自分のことを理解してくれない」と訴えます。彼らの人間関係の取り方にはいくつかのパターンがあるようです。おおざっぱに言うと自分の殻に閉じこもる無口で没交渉のタイプと過度に周りの人々に気を遣うタイプです。どちらのタイプにも共通していることは、相手の人に自分の本音が伝わっていないということです。自分の考えや立場、本音を表さなければ相手から理解されないのは当然でしょう。しかし、ここで問題なのは、このように人間関係で悩むタイプの人は、自分自身でも自分の本音がなんなのか分からないことが多いということでしょう。
 そこで、私は自分の子供っぽさを見つけて育てていくために、ぬいぐるみ療法を薦めることがあります。出来るだけふさふさした抱き心地の良いぬいぐるみを用意して、そのぬいぐるみに名前を付けます。そして、一日三十回くらいそのぬいぐるみに話しかけるのです。しかも夜は、抱っこして寝るのです。初めは妙に恥ずかしいかもしれません。それは今まで自分の子供っぽさを押さえてしまっていて、出すことに慣れていないからといえるでしょう。
 最近は「抱き枕」に人気が集まっているようですし、「たれぱんだ」が流行っているようですがこれらもぬいぐるみ療法の効果があるのではないでしょうか

投稿者: オボクリニック

2014.05.19更新

 「二十年以上、幼児教育に携わってきて、比較は何の価値も生まないと実感しています」とはある幼児教育の専門家の述懐である。比較は子供たちを差別することであり、比べられて育つ子は優越感と劣等感の泥沼に追い込まれ、ありのままの自分を受け入れ、自信を持つことが困難となっていくということであろう。
Iさんは二十代後半の女性だが、対人関係で緊張してしまい仕事を続けることができなくなって家に閉じこもる生活を送っている。対人関係の緊張は子供の頃からあったという。Iさんは3人姉妹の真ん中で育ったが、親たちから姉と妹は美人なのにあなただけは不器量だ、一番ぶすな子だといつも言われたという。世間的にみればIさんは美しい人なのだが、小さい頃からの低い評価が染み込んでいるせいかいつもおどおどしている。そして、自分に自身がないためにいつも周りに気を使い、気の休まる時がない、こうして疲れ果て、やがて引きこもるようになったものである。
 Iさんのように引きこもりに陥る若者は現代では決して少なくない。これらの若者に共通しているのは対人関係で非常に緊張が高いことだ。競争社会の中で常に、周りと比べられ、競って生きてきて、その緊張をもうこれ以上持続できないというところまで追い込まれた結果の引きこもりなのである。さらに、見てみるとIさんの場合でも見られるように、その緊張の背後に自己評価の低さが認められるものである。
したがって、Iさんの治療はこの自己評価を再構築することが必要であった。「自分のことをいいなと思えるようになってきたら、私でも人のことを好きになってもいいのかなと思うようになってきました」と遠慮がちながらも最近では対人緊張もかなり薄らいできて、外出の楽しさもでてきたという。笑顔にも力強さが見られる昨今である。

投稿者: オボクリニック

2013.08.03更新

 真面目なことは良いことである。一生懸命は良いこと、責任感が強いことも良いことである。しかし、ここに思わぬ落し穴が潜んでいる。すなわち、がんばっている自分は許せるが、がんばれなくなった自分は認めれなくなってしまうのである。しかも、真面目な人ほどこの落し穴にはまりやすいものである。
 Iさんは家庭のことで悩んで相談に見えた。69才の今も現役で働いているが、この先働けなくなったら我が家はどうなるのかと考えると不安で眠れないというのである。若い頃から苦労が絶えない一生だったが、ここに来て生活も安定してきた。家業も順調にいっている。しかし、現在が順調であればあるほど将来が一層不安になるという。
 私はIさんに質問してみた。「今のご自分に点数をつけるとしたら何点ですか」Iさんは考えて「今までがんばってきたし、幸に現在は体も健康でがんばれているから80点です」という。さらに重ねて私はIさんに尋ねた。「いままでがんばってきましたが、これからはだんだんと体も弱ってきて思うように動けなくなるでしょう。そう成ったときは何点ですか」しばらく考えてIさんは困った様子で「がんばれなくなったら私は30点です」という。「今までそんなにがんばってきて今もがんばり続けているのに、その人生の総決算が30点というのは何かがおかしくないですか」という処からIさんには人生の見直しをしていただいたものである。
 このIさんのように真面目な人は自分を見る目が厳しい。しかし、人生には順境の時もあれば逆境に沈むこともある。その逆境のときに、自分を情けないと卑下する生き方は間違った厳しさであろう。逆境の時こそ自身を信頼し、大きく暖かな眼で見守れる心の豊かさを育てていきたいものである。

投稿者: オボクリニック

2013.07.24更新

 ちょっと前のことになるが、電車の中で目にした宣伝のコピーが印象に残った。それは初老の男性の独白で「今まで自分はみんなのために一生懸命働いてきた。しかし、振り返ってみると、そのみんなの中に自分は入っていなかったようだ。これからはもっと自分にも目をむけて大事にしてやろう」という内容だったように記憶している。私の診察室を訪れる患者さんの多くが真面目であると同時に自己犠牲的な生き方をしていることが以前から気になっていた。しかもその几真面目さや自分を殺す生き方が病気の誘因として深く関わっているようなのである。
 Kさんは50代後半の主婦であるが1年くらい前に仕事を辞め、娘の嫁ぎ先に同居することになった。半年前頃から何となく体調が優れず、気分も落ち込み気味で、頭痛、頭重が続き、食欲もなくなってきた。夜もぐっすり眠れなくなり朝早くから目が覚めてしまう。身体の弱い娘に食事の支度や身の回りの世話をかけてしまうのが申し訳なく、迷惑だから自分は生きていないほうがみんなのためになるのではとついつい死ぬことばかり考えてしまう。と暗い顔をして訴えるKさんは典型的なうつ病のようだ。聞いてみるとKさんの人生は我慢と忍従の連続であった。結婚してから旅行らしい旅行もしたことがないという。ただ真面目に自分さえ我慢すればとひたすら堪えて生きてきたのである。
 私はKさんに「うつ病になって却って良かったんですよ。このまま晩年を迎えたら最後は私の人生何だったんだろうとなるところだったんですよ。いままでがんばったんだからこれからは自分を大切にして、人生を楽しく思い出深いものに総仕上げしていきましょう。」と訴えた。まだ数回目であるがKさんはずいぶん自分の生き方に自信が出てきたようである。

投稿者: オボクリニック

2013.07.24更新


「いい加減」という言葉は本来「好い加減」という意味である。しかし、いつのまにか悪い意味での「いい加減」の方が一般的になってしまい、バランスのとれた本来の「好い加減」ができなくなってしまう人が多い。 
 Tさんは30才の優秀なシステムエンジニアである。もともと生真面目で責任感が人一倍強く、引き受けた仕事は完璧にこなすことを信条にしている責任感の強い人である。それまでも多くの仕事を任されてオーバーワーク気味であったところに、さらに今度は会社の命運をかけた大きなプロジェクトの責任者となった。失敗は許されない仕事なので、いままで以上に懸命にこの仕事に取り組んでいたところ、しだいに夜もぐっすり眠れなくなり、したがって朝起きも苦痛になってきて食欲も減退し、ついにダウンしてしまった。
 真面目な人ほどこのような板挟みの立場に置かれると、自分さえ我慢すればとがむしゃらに頑張り自分の限界を越してしまうものである。極端に例えると、2トンのトラックに5トンの荷物を積んで走ろうとするのである。その結果がこのようなうつ病であったり、過労死となってしまう。このようにいわゆる「好い加減」に仕事を遣り繰りできない人達は共通してその背景に「いい加減」はいけないという価値観を持っているようだ。自分の限界を見極め、仕事を断ることは勇気のいることではあるが「好い加減」であってこそ長続するし、知恵や工夫のこもった良い仕事ができるのである。このような一見当り前のことがなかなか頭では解っても身には付きにくいものである。一年ちかくたって「今まではやせ我慢の人生でした。いつも〜ねばならないという考え方だから例え達成できても喜ぶどころかくたびれだけが残ったものです。病気になってこういう生き方の間違いに気づけて良かった」と語るTさんの将来はもう心配ないようだ。

投稿者: オボクリニック

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